梶 芽衣子(かじ めいこ、1947年3月24日- )は、日本の女優・歌手。本名および旧芸名、太田 雅子(おおた まさこ)。
八雲高校在学中に高橋圭三にスカウトされ、高橋司会の『おのろけ夫婦合戦』(日本テレビ)でホステス(アシスタント)を務めたことが切っ掛けで1965年、高校卒業と同時に日活に入社。同年に映画『悲しき別れの歌』で本名の太田雅子でデビューし、石原裕次郎・小林旭・松原智恵子・吉永小百合らが主演する映画で助演していた。同期で活躍しているのは渡哲也。
子役からのアイドルスターであった太田博之とコンビを組み、W太田として青春スターとして売り出され、1965年の映画『青春前期 青い果実』で主演を果たす。この頃は慣れないアフレコに四苦八苦しており、そんな梶をある大物女優があざ笑い、怒った梶はその女優に啖呵を切ったという。その噂は撮影所に瞬く間に広がって武勇伝となり、会社の重役からは絞られたものの、その事が切っ掛けでアフレコを一生懸命に練習し、上達した。最初は吉永小百合の後継者ともいわれたが、デビュー一年後からは脇役にまわされた。日活が東映のヤクザ映画のマネをして製作した1969年の『日本残侠伝』出演した際、監督・マキノ雅弘に勧められ、芸名を梶 芽衣子と改名した。改名は成功し、以降不遇時代から抜け出す。
1972年3月『純子引退記念映画 関東緋桜一家』を最後に引退した藤純子の後釜として東映に誘われ同年東映に入社した。『銀蝶シリーズ』の後、『女囚さそりシリーズ』で人気を決定付けた。本作で”ヒロインが台詞を喋らない方が凄みを増す”というアイデアは梶が出した。1973年、『女囚さそりシリーズ』の三作目に出演するかしないかで揉めているとき、深作欣二監督に請われて出演した『仁義なき戦い 広島死闘篇』でもヒロインを好演した。『女囚さそり』のシリーズ化で揉めて東映とケンカ別れの形となり、同年退社し再びフリーとなる。その後東宝の『修羅雪姫シリーズ』など、各社で主演映画が製作されていく。これらの作品は海外でも人気を呼び、クエンティン・タランティーノは梶の熱狂的ファンと公言。タランティーノは映画『キル・ビル』で『修羅雪姫』のオマージュをし、梶の歌「修羅の花」と「怨み節」を流している。
東映の『女囚701号/さそり』を撮影していた当時、大手レコード会社のディレクターとの縁談が進んでおり、同作を最後に芸能界を引退して専業主婦となる決意を固めていた。映画が予想以上の大ヒットとなったため続編が企画されるが、梶は結婚を理由に出演を断る。しかし岡田茂の説得により「あと一作だけ」の条件で続編の出演に応じたところ、その後も俊藤浩滋ら多くの関係者の説得を受ける形で続編の制作が続けられ、縁談は最終的に破談になってしまった。
一方でイメージ打破のためノーギャラで出演した『大地の子守歌』では、ほのかな優しさを主人公に向ける農婦の役を演じた。1978年には宇崎竜童と組んで2人の主演映画をやりたいという自身のプランのもと製作された『曽根崎心中』では、強い女の情念を演じて新境地を開拓し、国内の主要映画賞を複数受賞した。同作品で楽曲提供で付き合いのあった宇崎竜童を俳優業に引き入れ、宇崎はこれを切っ掛けに異分野の交友を急増させた。1982年東映で映画化された『鬼龍院花子の生涯』は、元は梶が東映に企画を持ち込んだもの。