古尾谷 雅人(ふるおや まさと、1957年5月14日 – 2003年3月25日)は、昭和から平成初期の日本の俳優。本名は古尾谷 康雅(ふるおや やすまさ)。神奈川県川崎市中原区出身。身長188cm。正木ルーム(有限会社ビッグアンドエム内で設けられた芸能事務所)に所属していた。
自死の経緯
古尾谷の死後に妻・鹿沼が語ったところによれば、1990年代以降は仕事を選ぶようになったという。古尾谷はあくまで硬派な役柄やシリアスな役柄などにこだわり、軽薄な作品に出ようとせず、当時のトレンディドラマブームにも乗り損ねた。また、敬愛する松田の死によって俳優としての将来像も見失っていたという。制作サイドも古尾谷の姿勢と徐々に釣り上がる報酬単価から起用を敬遠するようになった。古尾谷のもとには大河ドラマのオファーも度々舞い込んだが、幼い頃に腸重積症を患った影響で腸が短くなり、トイレ休憩なしの長時間の撮影に耐えられない体だったため、辞退せざるを得なかった。こうしたことが重なり、俳優としての活動範囲を狭くなったことを古尾谷は終生苦しみ続けた。
やがて一日中家にいることも多くなり、昼間から酒浸りの生活になった。収入が激減したことで、住民税や1億5000万円で購入した自宅マンションのローンなどの支払いが滞るようになり、鹿沼も「元・女優」というプライドを捨てて近所のスナックでアルバイトをしながら金策に奔走し、返済を進めたが、結果的に借金は3億円にまで膨らんだ。
1995年『金田一』の剣持警部が当たり役となり、鹿沼や関係者も「これで持ち直した」と期待したが、精神面の不調や過度の飲酒により台詞覚えが悪くなった他、撮影現場で故意に備品を破壊するなどのトラブルを起こし、心身の状態は悪化の一途を辿った。
そうした状況下で実父の遺産相続を巡って継母との係争問題が表面化した。元々洗面所でいつまでも手を洗うほどの潔癖な性質に加え、こうしたさまざまな焦燥感によるストレスと昼夜逆転の荒んだ生活などから精神的に不安定な状態が顕著となり、鹿沼に対して顔面に重傷を負わせるほどの暴力に及んだかと思えば、逆に突然鬱状態に陥り「舞台で死ねたら役者として本望」「自分は必要ない人間じゃないか」と悲観的な言葉を発するようになるなど不安な日々が続いていた矢先の悲劇だったという。