サー・マイケル・ケイン(Sir Michael Caine, CBE、1933年3月14日 – )は、イギリスの俳優。
南ロンドンのロザーハイドで生まれ、キャンバーウェルで育った。第二次世界大戦中はノーフォークへ疎開。戦後、兵役でベルリンや韓国に赴いた後、舞台監督の助手などを務めながら演技を志し、ロンドンの演劇学校で学んで、舞台俳優となった。デビューしたときのステージネームはマイケル・スコット(Michael Scott)であったが、同名の俳優がいたため、その名を変更しなければならなかった。ロンドンのレスター・スクウェアの電話ボックスでエージェントと名前変更の話をしていたとき、辺りを見回すとオデオンで偶然『ケイン号の叛乱』が上映されており、姓をケインに決定した。後年インタビューで、その時上映されていた映画が『101匹わんちゃん大行進』だったなら、名前は「マイケル・101・ダルメシアン」だったろうと冗談交じりに話した。1956年、『韓国の丘』の脇役としてスクリーンデビュー。下積みが長かったが、1964年の『ズール戦争』の陸軍中尉役で注目され、1965年にはレン・デイトンのスパイ小説を原作とした『国際諜報局』で主演。この映画では『007』シリーズのジェームズ・ボンドのアンチテーゼである、眼鏡を掛けたシニカルなサラリーマンスパイのハリー・パーマーを飄々と演じた。『ハリー・パーマー』シリーズは続編2作が作られ、ケインは一躍人気を得る。クールでシニカルなキャラクターは、その後もケインの得意とする役柄となった。続いて主演した『アルフィー』のプレイボーイ役では、全米映画批評家協会賞最優秀男優賞を受賞し、アカデミー主演男優賞候補となった。その他に、当時遥かに格上だった名優ローレンス・オリヴィエと五分に渡り合う演技をみせた『探偵スルース』、『リタと大学教授』、『愛の落日』でもアカデミー主演男優賞候補となる。そして『ハンナとその姉妹』、『サイダーハウス・ルール』で、二度の助演男優賞を受賞している。叙情的なシリアスプレイからコメディでの好色でとぼけた役までその演技の幅は広いが、スケジュールと出演料の都合さえあえば作品を選ばない主義である。そのため出演作品は非常に多く、時に『スウォーム』、『ポセイドン・アドベンチャー2』、『沈黙の要塞』などの失敗作や、『オースティン・パワーズ ゴールドメンバー』のような怪作にも出演している。また太平洋戦争末期の日本軍と連合軍とのジャングルでの戦闘を描いた『燃える戦場』では、イギリス軍二等兵役で、日本軍少佐役の高倉健と共演した。最初のアカデミー助演男優賞の受賞の際、『ジョーズ’87 復讐篇』(ビデオ題名『ジョーズ4/復讐編』)の撮影でバハマ滞在中であることを理由に授賞式を欠席したのは有名なエピソードである(ちなみに、同作は1987年度のラジー賞では7部門にノミネートされ、マイケル・ケイン自身も、幸い(?)受賞は逃したがワースト助演男優賞にノミネートされた)。帰国後にテレビのトークショーに出演し、「制作者のみんな、オスカーをもらったからってギャラをふっかけないから安心してくれ」と発言した。2度目の助演男優賞を受賞した2000年のアカデミー賞授賞式では、出演作の多さを司会のビリー・クリスタルに「授賞式の休憩中にも1本撮るのかい?」とネタにされた。スパイ「ハリー・パーマー」役で著名となったケインは、ジェームズ・ボンド役を演じたショーン・コネリー、ロジャー・ムーア、ピアース・ブロスナンと共演し、主役を演じた経験がある(コネリーとは『王になろうとした男』、ムーアとは『ダブルチェイス』、ブロスナンとは『第四の核』で共演)。また、前出のオスカー授賞式に欠席した翌年にプレゼンターとして出演した際、コネリー(ちなみにこの年の最優秀助演男優賞を受賞)、ムーアと3人で壇上に上がり、丁々発止のやり取りで会場の爆笑を誘っている。ジュード・ロウとは縁あってか、『アルフィー』と『探偵スルース』のリメイクでは、かつてケインが演じた役をロウが演じており、後者ではケイン自身もローレンス・オリヴィエがオリジナル作品で演じた役で出演している。キャリアへの評価から、1993年には英国女王エリザベス2世からCBE勲章(Commander of the British Empire)を授賞された。更に2000年には長年の活動を称えられてナイトに叙され、Sir(サー)の称号を受けた。近年では劇中内で死にゆく今際の際の老人役に抜擢される事が多い他、クリストファー・ノーラン監督作に頻繁に出演しており、『バットマン ビギンズ』以降7作品に出演している。英Total Film誌が発表した、「映画史に残る監督と俳優のコラボレーション50組」では26位に選ばれている。2015年、『グランドフィナーレ』で第28回ヨーロッパ映画賞で男優賞を受賞。また、栄誉賞も同時に贈られた。